3月21日(水)春分の日,そしてバッハの生まれた日・・・

公開日 2018年03月21日(Wed)

 3月21日(水)春分の日,バッハ Johann Seabstian Bach (1685-1750) の生まれた日です。バッハ一族は大変な音楽一家で,バッハという名の音楽家はバッハの息子たちを含めて数え切れないほどいます。もちろん,今日は大バッハ,ヨハン・セバスチャン・バッハの誕生日です。バッハの作品を整理したBWV(Bach-Werke-Verzeichnis バッハ作品目録)では1000を越える番号までありますので,ベートーヴェン以降では考えられないような数多くの作品を残しています。一つには,ある程度決まったパターンというものがあり,それに合わせて作曲していけば作品が完成するというやり方なので,ベートーヴェンほどには一つ一つの作曲に思い悩む必要はなかったということもあります。しかしながら,慌てて付け加えれば,だからと言って,バッハの一つ一つの作品が軽いものかと言えば,決してそのようなことはなく,バッハの天才的な創意が働いています。当時無数にいた作曲家たちの中で,バッハが燦然と輝いているところからもバッハがずば抜けた大作曲家であることが頷けます。1曲20分前後のカンタータと呼ばれる合唱と独唱を伴う作品を200曲以上残していますが,駄作と呼べるようなものは1つもありませんし,ストラヴィンスキーがヴィヴァルディのことを「600回も同じ協奏曲を作り直した」などと揶揄したような同工異曲が並んでいるわけでもありません。その証拠にカンタータ全集と呼ばれるものが幾つも出ています。ヴィヴァルディの協奏曲は確かに同じ作品ではないかと思われるような作品がありますが,それでも「四季」があれば十分ということにはなりません。ストラヴィンスキーが言っていることはある程度真実もあるように思われますが,やはり誇張が過ぎると言うべきでしょう。バロックの時代は,演奏会の中心は教会にあり,次から次に新しい作品を演奏しなければならない必要性から,ある程度のパターンがあるのは仕方がないのです。実は,バッハのカンタータなどの宗教音楽では,時々別の作品で使われた音楽が利用されていたりします。それでもバッハの作品の価値は些かも減じることはなく,むしろバッハの作曲方法や作曲された時期を知るヒントにもなり,さらには作品に深みをもたらしている印象すらあります。ブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲第2番や第3番が一般的には有名で親しみやすいと思われますが,フランス組曲やイギリス組曲,パルティータ集,平均律クラヴィーア曲集などの鍵盤音楽,そして無伴奏ヴァイオリン・ソナタと無伴奏チェロ組曲など挙げれば切りがないほど傑作の森は続きます。でも,深い森を奥まで進むと,カンタータ集やマタイ受難曲,ヨハネ受難曲などの息を呑むような見事な宗教音楽が咲き誇っています。カンタータ第140番や第147番は比較的森の浅いところに位置しているかも知れません。ちなみに,バッハ Bach はドイツ語で「小川」という意味のようです。もちろん我らがバッハは見事な大河であり,大洋であると言えるでしょう。バッハの深い森に足を踏み入れ,広大な海に漕ぎ出でてみてください。

 今日はまた和泉式部忌でもあるのだそうです。3月18日を忌日として精霊の日としたり,6月に和泉式部の命日のための法要を行うお寺もあるようですから,要するに生没年不詳ということで,あちこちで好き勝手に(?)解釈しているのでしょう。でも,多分この日3月21日が一番大きな行事が行われる日なのかも知れません。

 『老犬コロの繰り言その88』です。ローソンの360円もするカツサンドが好きで,時折昼食に食べるのですが,さすがに2個入りを両方とも食べきることができずに,先日自宅に持ち帰りました。とっくに賞味期限は過ぎていたので,家人が老犬にやろうとして台所に置いていたところ,同居している家人の両親が食べてしまわれました。賞味期限切れを心配して家人がどこも具合は悪くないか義父に尋ねると,「コロには言ってなかったんだろ?じゃあ大丈夫だ。」という答えが返ってきました。確かに,老犬にはカツサンドのこと話してなかったけど・・・。次の週,また老犬にカツサンドの残りを持ち帰りました・・・。老犬は自分のカツサンドを食べられてしまったことなど気づいていなかったようですけど・・・。

 
老犬コロの繰り言その88
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 旦那は視察に出かけるとき,相変わらず文庫本をポケットに入れるか,手に持っておる。桜公園に達しない限りは,その本が紐解かれることはないのじゃ。以前よりは,桜公園まで歩くことは増えてきたのじゃが,それでも毎回たどり着くわけではない。旦那が気の毒に思えることもあるが,仕方がないのじゃ。寄る年波には勝てないということじゃ。わしの気紛れに付き合ってもらうしかない。修学旅行前にみやまコンセールで「吾輩は猫である」を紛失した旦那は,代わりに「色彩を持たない多崎つくると,彼の巡礼の年」を修学旅行に持っていきよったようじゃ。奥様が途中まで読んで,棚に置いていたやつじゃ。村上春樹はすいすい読めるものじゃから,修学旅行3日目には本屋に立ち寄り,漱石の「道草」に取り掛かることにしたようじゃ。立ち寄った本屋に「吾輩は猫である」がなかったのじゃ。ストーリーらしきもののない漱石の日常を綴ったような作品・・・。お金の貸し借りなど世知辛い世の中が描かれておったらしい。そして,「吾輩は猫である」を再度買い直し,名もなき猫の無様な最期まで読み通したのじゃ。人間の世界には図書館というものがあり,ただで本が借りられるということじゃ。実際旦那が勤務している学校にも図書館はあるようじゃが,この男,夥しい数のCDを見ても分かるように収集癖が半端ではないのじゃ。一度読んだ本を棚に置いておいて,いつかまた読もうと思うらしい。じゃが,殆ど読み直したものなどないのじゃ。ただ並べておくのが好きなのじゃ。

 「吾輩は猫である」が済むと,今度は以前気紛れに購入していた「関ヶ原」を読み始めたのじゃ。旦那はそもそも歴史物はそれほど好きではない。じゃが,以前こちらも気紛れに読んだ「坂の上の雲」での司馬遼太郎の博学ぶりに舌を巻いたようじゃ。「関ヶ原」では家康も三成もどちらも邪悪に描かれておるのじゃ。権謀術数を駆使する天下争いの醜さ,どちらかと言えば,秀吉への忠誠を重んじる三成の悲劇の方が力が入っているか・・・。考えて見れば,今日の世界も400年前のその当時と余り変わらないのではなかろうか。覇権争いは人間に課した神の呪いなのかも知れないのお。おっと,また神が出て来おった。全ての人間が上手に妥協して平和に生きていくなどということは,難しいのかも知れんのお。そうなれば,そうなったでまた面白みのない,つまらない世の中になるっていうわけじゃな。もう,勝手にしろ。わしの知ったことじゃない。余り,そうそうわしに無理難題をふっかけないでくれ。本など読むから,そういうことになるのじゃ。のほほんと日向ぼっこでもしてたらいいんじゃ。おおい,旦那,わしのおやつはまだかのお・・・。

 この続きはまたの機会に・・・。じゃ・・・。